広島県総合グランド野球場

(ゲスト寄稿/広島県・いの一番さん)

MAP

広島市の中心部、紙屋町から南西方向にバスで20数分、広島県総合グランドは西区観音新町にある。野球をはじめ陸上競技、サッカーなどが行われる広島県スポーツ界の拠点施設の一つだ。

ここにある野球場は「広島総合球場」「県営総合球場」などと呼ばれ、かつては広島カープが本拠地として使用していたことで知られている。カープ存続のために入口に募金の樽が置かれたエピソードは有名だ。

しかし広島市民球場が完成し、カープが本拠地を移した後は、ここはアマチュア専用となり大きな試合とは縁がなくなってしまった。現在では試合関係者や一部の熱心な野球ファンなど限られた人しか訪れず、またメディアに取り上げられることもほとんどないため、地元広島でも存在は知っていても行ったことがない人が多いのが実態だろう(実は筆者も長年広島に住んでいながら、初めて訪れたのは30代半ばになってからである)。そこで本稿では、あまり知られていないこの野球場の現状について紹介しようと思う。


<総合グランドの概要>

野球場の前に、まず総合グランドの概要を紹介しておこう。この施設の歴史は古く、起源は戦前にさかのぼる。そもそものきっかけは、1938(昭和13)年、厚生省が国民体位向上のため全国10ヶ所に総合運動場の建設を計画したことで、当時スポーツ県と言われながら施設面では貧弱だった広島県が名乗りを上げ、誘致に成功したのである。

建設工事は1940年1月15日に始まり、中等学校生徒の勤労奉仕により翌1941年12月に完成、陸上競技場、野球場、庭球場、相撲場、弓道場などがあり、「関西一」の規模といわれた(現在とは「関西」の意味あいが違ったようだ)。当時の名称は「総合体錬場」だった。

完工式は12月7日に行われ、陸上競技の織田幹雄、吉岡隆徳、高田静雄の3選手が模範演技を見せた。また、この日から3日間記念の体育大会が行われたのだが、翌8日、日本は太平洋戦争に突入、大会は予定どおり行われたものの、会場でも大本営発表が再三放送され、異様な雰囲気だったという。

このような時代背景のため、せっかく施設が完成したものの、ここは戦中はほとんど活用されることなく、軍の資材置場や芋畑になっていたそうである。

しかし、戦争が終わった1945年の12月にはラグビーの試合が行われ、翌年4月には県の第1回スポーツ祭が開催されるなど復興は早かった。当時の広島は原爆投下により大きな被害を受け、その日の生活がやっとという状態であったが、戦地から戻ってきたスポーツ関係者達が、ただちに各競技団体の再建に取りかかったことが大きい。暗い世の中だからこそ、心の支えとなる明るいスポーツの話題が必要だったのだ。

その後は1948年に名称が現在の「総合グランド」になり、1951年の国体で初めて全国規模の大会に使用、以後1968年のインターハイ、1994年のアジア大会(サッカー、野球)、1996年の国体(ラグビー)などの会場となり、こんにちに至っている。

アジア大会モニュメント ひろしま国体マスコット「咲ちゃん」

現在、野球場以外にここにあるのは、まず事務室、宿泊研修施設や食堂などのある広島県スポーツ会館で、食堂はうどん、カレーだけではなく定食ものもあり、結構メニューが豊富である(ただし、筆者は食べていないので味は保証しない)。


広島県スポーツ会館

次に「広島スタジアム」の愛称を持つメインスタジアムは、第一種公認陸上競技場であるとともに、国際サッカーにも対応できる天然芝のフィールドを持っており、13800人収容のスタンドがある。Jリーグのサンフレッチェ広島の本拠地になっており、メディアへの登場回数も多い(もっとも2004年はサンフレッチェはホームゲームを全て広島ビッグアーチで行うそうだ)。この他県内では珍しいラグビー専用競技場(1100人収容)、補助グラウンド等があり、土曜、日曜を中心に各種スポーツの大会、練習に利用されている。


広島スタジアム


<野球場の概要>

■野球場の歴史
野球場は、前述のように1941年12月に完成し、記念体育大会では中等野球の試合が行われた。12月7日の開場日には、広陵中学−広島市商、呉港中学−呉二中の2試合があり、広陵が3−1、呉港が14−1で勝っている。

しかし、他の施設と同様、本格的に活用されるようになったのは戦後になってからのことで、終戦の翌年、1946年からは中等野球(高校野球)、社会人野球が盛んに行われるようになった。1948年8月6日には広島市初のプロ野球公式戦となる南海−急映が開催されている(ちなみに一リーグ時代の開催試合数はこれを含めて3試合)。

そして、1949年暮れに地元プロ球団広島カープが誕生し、翌年からセ・リーグのペナントレースに参加、ここは広島市民球場が完成する1957年シーズン途中までカープの本拠地として使用され、ファンに親しまれた(厳密には本拠地といえるのは、フランチャイズ制度の確立した1952年以降だが)。

この間行われたプロ野球の公式戦はカープ戦226、その他のセ・リーグ9、パ・リーグ8の計243試合にのぼる。カープ球団の初勝利(1950年3月14日)、長谷川良平の30勝達成(1955年10月20日)、巨人の優勝決定で水原監督胴上げ(1956年9月23日)などがここでの主な出来事だ。カープ移転以後は、アマチュア野球専用となり、大きな行事での使用は1994年のアジア大会で野球の会場になった程度である。

■野球場の現状
まず、グラウンドは両翼92m、センター113mで内野は土、外野は天然芝である。大きさはカープが使用していた当時とほとんど変わっていない。グラウンドの整備状況や芝の管理状況はあまりよいとはいえない。

ブルペンは一塁側、三塁側のファウルグラウンドにあり2人が同時に投球できる。フェンスはラバー付で金網と合わせた高さは2m弱くらい、面白いのは外野フェンスに数社が広告を出していることで、入場者が少なく効果があるとは思えないのに、なぜ出しているのか、また広告料はどのくらいなのか気になるところだ。

ネット裏から 三塁側から
   
ライト側から レフト側から

次にスタンドは、ネット裏が長椅子、内野席はコンクリート階段、外野席は前列がコンクリートで残りが芝生席、収容人員は野球場にある表示によると内野席4250人、外野席9000人の計13250人だ。

もっとも、この収容人員には非常に疑問がある。というのも隣の広島スタジアムが13800人なのでその差は550人しかないのだが、実際にスタンドを見比べると、広島スタジアムの方がかなり大きいのである。とても550人の差とは思えない。それに、外野席が内野席の2倍以上の収容人員というのも無理がある。

筆者の見た感じではせいぜい数千人の収容が限度だと思われ、どうしてこんなにサバを読んだ数字にしているのかわからない。ここは教育委員会所管の施設であり、ウソの表示は教育上よくないと思う。

ネット裏スタンド 三塁側スタンド
   
外野スタンド

なお、照明設備はない。また、スコアボードは長らく手書式だったが2002年から磁気反転式になった。この球場で唯一新しさの感じられる施設である。


スコアボード

■野球場の今後 
以上が野球場の現状である。写真をご覧になればわかるように、古き良き時代を感じさせ味のある雰囲気を持っている、という見方もできるが、改修がほとんど行われておらず時代に取り残されている、といった方がよいだろう。広島市民球場の老朽化がよく話題になるが、こちらのそれも相当深刻なものがある。

筆者の考えを書かせてもらえば、最低限次の二点を改修すれば、少しはまともになると思う。一つはグラウンドの拡張で、両翼92mはまだしもセンター113mは狭すぎる。ここで外野席が必要になるほど客の入る行事はまず開催されないのだから、思い切って外野席を撤去してグラウンドを可能な限り拡張してはどうだろうか。

もう一つはスタンドの改修で、内野席のコンクリート階段にはネット裏と同じく長椅子を設置すべきだろう。夏の高校野球予選時には、コンクリートが熱せられているため応援団は座ることができず、足元に水をまいて立ったまま応援している状態だ。熱中症で倒れる人が出ないのが不思議である。また、ろくに掃除のされていないトイレも清潔にする必要がある。

広島県庁が財政難であることは筆者も承知しているが、県庁所在地にある県営球場がこの状態ではあまりにも悲しい。現在の野球事情に合う最低限の設備だけは何とかしてもらいたいと願う。


※写真は2003年9月及び11月に撮影した。
※一般的には「グランド」ではなく「グラウンド」という表記であると思われるが、施設の正式名称が「グランド」であるため、名称についての表記はそれに従った。

参考文献:「中国新聞」1941年12月7日〜12月10日
       金桝晴海「広島スポーツ100年」中国新聞社(1979年)
       冨沢佐一「カープ30年」中国新聞社(1980年)
       中国新聞社編「カープ50年〜夢を追って」中国新聞社(1999年)
       「ベースボールマガジン2001年夏季号」ベースボールマガジン社(2001年)

目次へ

inserted by FC2 system