桐生球場

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観客席はネット裏中央上部のみ背もたれ付きで、その他の内野席は全て長椅子。外野は全て芝生席。収容人員は桐生市のパンフレットによると、内野9195人、外野6722人の計15917人。ただし最近改装をしたようなので、多少数字に変動があるかもしれない。

ネット裏上部中央 ネット裏下段
   
内野席 外野席

そしてこの球場の大きな特徴として、内野席のネットがとても低いことが挙げられる。前から2列目以降に座れば視界がネットに遮られることがないのでとても観戦しやすい。しかもダッグアウト上に至ってはネットが無く手すりだけなので、神戸の「フィールド席」並みの臨場感が味わえる。

内野席の低いネット ダッグアウト上にはネットが無い
   
視界良好

余談だが、外野席後方に東武鉄道と上毛電鉄の線路が併走していて、この辺の雰囲気はなんとなく西京極球場を連想した。そして踏切の音が聞こえる球場というのは、筆者の記憶では他に思いあたらない。


外野席後方を走る上毛電鉄

売店はスタンド下コンコースに出店。食べ物類は前橋に本店がある登利平の「上州御用鳥めし<竹>」630円くらいしか無いようだった。他にかき氷250円、清涼飲料水(缶)150円など。飲み物に関しては球場正面の外にある自販機が通常価格なので、一旦外に出て買ったほうが安い(再入場可能)。

コンコースの売店 登利平の「上州御用鳥めし」

さて、そろそろ試合が始まる。試合前に主催者紹介と大澤善隆・桐生市長による挨拶。今日の試合は「第4回桐生市スポーツフェア」という位置づけとのこと。4月25日にはその一環として、当球場にて元巨人の篠塚氏、山倉氏、橋本氏らによる少年野球教室も開かれたそうである。また、球場係員はこの日のために作ったライオンズとスワローズのマークがプリントされたお揃いの青いTシャツを着ていた。


係員のTシャツ

続いて地元群馬県出身の西武・渡辺久信コーチと西武・山崎投手に花束贈呈。渡辺コーチはやはり人気があるようで、「ナベ〜!」「なべちゃ〜ん!」などと観客から声が上がり、渡辺コーチもそれに手を上げて応えていた。

そして西武ナインによるサインボール投げ入れ、女子中学生野球選手による始球式とセレモニーが続き、定刻より少し遅れて13時3分にプレイボールがかかった。先発投手は西武は地元の山崎、ヤクルトは花田。

2回表ヤクルトは、7番梶本の左中間二塁打でまず1点先制。そして続く8番米野がライトへ2ランホームランを放ちこの回3点を挙げた。しかしその裏西武は、4番マクレーンの左中間場外へのソロホームランと、7番高山の併殺打の間に1点を入れて都合2点を返す。さらに3回裏には5番DH木大がライト場外へ3ランホームランを放ち5−3と逆転した。

4回表ヤクルトは山崎の暴投、その裏西武は1番栗山のソロホームランでそれぞれ1点を追加。そして5回表ヤクルトは4番畠山がレフトへ3ランホームランを打ち込み7−6と再逆転。

その後ヤクルトは、6回に代打丸山の犠飛、7回に畠山のタイムリーヒット、9回にも3番ユウイチのタイムリー三塁打と畠山の犠飛で得点を重ね計11点。一方西武は7回に高山のタイムリーヒットで1点を挙げ計7点と打撃戦の様相。そのため試合時間は3時間半を軽く超える展開となった。

このへんで列車の時刻が気になりだす。というのは16時51分発の列車を乗り過ごすと、次は1時間3分後になってしまうからだ。何も予定が無ければ最後まで観ても良かったが、このあと暗くなる前に行きたい場所があったのでちょっとヤキモキとする。

9回表が終わったところで時刻は16時40分。もう限界なのでやむなく席を立つ。二軍戦で4時間近い試合になるとは思っていなかったよ。なお翌日の新聞を見ると、そのまま11−7でヤクルトが勝ったようだ。

球場を出て運動公園駅へ向かう。球場からは5分もかからないで到着。ここからわたらせ渓谷鉄道で桐生へ。所要8分で運賃は230円。桐生の駅舎には桐生第一高校の甲子園出場を祝う横断幕が掲げられてあった。


桐生駅

駅から南へ徒歩5分ほどで新川公園に到着。実はこの場所は桐生新川球場の跡地なのである。公園内には「新川球場を偲ぶ」という記念碑が建てれれていて、「稲川監督をはじめ 沢山の野球人を 育んでくれた この地に 限りなき追憶をよせて 平成三年四月吉日 (財)桐生市体育協会」と刻印されていた。稲川監督とは誰なのか調べてみると、桐生高校の監督を務め春夏合わせて甲子園に24回導いた稲川東一郎氏(1905〜1967年)のことのようである。

新川公園案内図 新川球場を偲ぶ

ここで桐生新川球場の簡単なデータを。「ベースボールマガジン2001夏季号」によると、開設は1928年11月。サイズは両翼83.6m、中堅106.1mと現在の球場と比べるとかなり狭かったようだ。実際跡地の新川公園を眺めると、野球場としては狭く感じられた。

プロ野球公式戦は1947年から1974年にかけて20試合開催。そして特筆すべきは1945年11月24日に、戦後復活したプロ野球東西対抗の第2戦がこの球場で行われたことである。そしてその翌日にはプロ東軍と全桐生の試合が組まれ、地元全桐生が勝利を収めたという。そんな新川球場も施設の老朽化や新設された桐生球場の完成などから1987年に閉鎖され、跡地がこの新川公園になった。

新川公園

帰りは渡良瀬川対岸の東武・新桐生駅まで行く。桐生駅から新桐生駅まではコミュニティバスが走ってるようだったが、乗り場がよく判らなかったので2km弱の道のりを歩いた。

新桐生駅

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