明治大学島岡球場

MAP

駒大グラウンドに出掛けた3日後の2001年4月5日、今度は明大のグラウンドへ行ってみた。今回も自転車を漕いで23分、12時50分前に球場に到着。ちなみに公共交通機関を利用する場合は、京王線・つつじヶ丘駅から京王バス「丘21系統・深大寺行」、もしくは京王線・調布駅から「調35系統・杏林大学病院行」に乗って「晃華学園」バス停で下車。晃華学園のすぐ向かい側がグラウンドである。

球場入口 入口に貼ってある日程表

この日のカードは明大−日石三菱のオープン戦。観客は部員を除くと約20人だが、筆者以外にも部外者が来ているようだ。さっそくネット裏の席に座ると、またもや部員から座布団を差し出された。これは大学野球界のしきたりなどだろうか。

試合は13時すぎにプレイボール。先発投手は日石三菱のほうは背中のネームから「タジカラ」と判別出来るが、明大は背番号18の選手で名前は不明。そして東京六大学のホームゲームであるが、オープン戦ということで両チームとも指名打者を入れている。なお審判は4人とも明大生が勤めるようである。

グラウンドの開設年は1961年。それまで代田橋にあったグラウンドが移転したらしい。観客席はネット裏に木を渡しただけの質素なベンチが3列あるのみ。一応トタンの屋根が付いている。

実はここに来るのは2回目で、ン十年前に父親と高校野球東京都予選を観に来たことがある。何を隠そうこの球場では過去に公式戦が行われたことがあるのだ。しかもその時にはしっかり入場料を取っていた。この設備でよく金が貰えたものだ(笑)。ちなみにその試合で両校応援団は、応援席が無いので一・三塁側のネットにへばりつくように応援をしていたのを憶えている。


ネット裏の観客席

グラウンドを見ると、外野フェンスに両翼100m、中堅125mという表示があり、なかなか広い。そして駒大グラウンド同様ホームプレート上にはネットが張られている。スコアボードはバックスクリーンと一体で得点表示のみ。ブルペンはファウルグラウンドに各2人分。そのほか一塁側グラウンド脇にも5人分のブルペンがある。

スコアボード 一塁側脇にあるブルペン

右中間後方には室内練習場があり、その外壁には「勝機一瞬 2001年 明治大学野球部」というチームスローガンが掲げられていた。またレフト後方にはサブグラウンドがあり、こちらは系列の明治高校の練習場らしい。

ネット裏から
   
室内練習場の外壁のチームスローガン サブグラウンド

そして注目するべきはバックスクリーン右脇にある「御大」こと故・島岡吉郎監督の胸像。没後でも選手達を見守れるようにとグラウンドに向けて建てられている。そして胸像の背後には野球部合宿所の「島岡寮」がある。なお、球場名に「島岡」の名が付いたのは1989年の没後のこと。

島岡監督の胸像
   
島岡寮

またネット裏の敷地内に民家のような建物があったが、これはひょっとして島岡監督が生前住んでいた家だろうか。余談だが筆者は晩年の島岡監督を仙川の「ロイヤルホスト」で見かけたことがある。その時は両脇を部員に抱えられてやっと歩いているようだった。

他に目についたものとしては、ネット裏にある倉庫の2階の「VIPルーム」と書かれた部屋や、1975(昭和50)年の東京六大学リーグ戦春夏連続優勝を記念して美津濃から贈られたヒイラギ科トネリコの記念樹などである。

ネット裏の敷地内にある民家? トネリコの記念樹

なお、これも余談だが島岡監督の出身地である長野県下伊那郡高森町には、「御大の館」という記念資料館と温泉が併設された施設があるらしい。これも機会があれば一度行ってみたいところだ。

さて、話を試合に戻そう。1回裏明大は二死三塁から4番打者のショートゴロがエラーを誘い1点先制。しかし2回表日石三菱は、無死二、三塁から6番ミズカミの左中間二塁打で2点を入れ早々に逆転する。

だが明大もすぐに2回裏、一死二塁から8番打者のライト前ヒットで同点。さらに一死満塁と攻め2番打者のライト前ヒットで2点を入れ4−2とした。すると日石三菱も負けずに3回表、4回表と1点ずつ返し4−4の同点。そして7回裏明大は二死三塁から5番打者のレフト前ヒットで勝ち越し、結局これが決勝点となり5−4で15時45分試合終了。

<追記>
府中市に移転のため、2006年10月7日に閉場。跡地は「深大寺レジデンス」という街になる予定。

目次へ

 

inserted by FC2 system