日本生命球場

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1950年6月28日、日本生命従業員の厚生施設として開設。これは大阪球場よりも2ヶ月半ほど早い。こけら落としは7月13日の南海−毎日戦。翌日には近鉄−南海戦が行われている。

建設の経緯から関西六大学や高校野球、ノンプロなどアマチュアの使用が中心だったが、大阪市民の要望もあり1958年5月19日に近鉄の全額負担で照明設備が完成。この年から近鉄パールス(後にバファローズ)が大阪球場から移転して本格的にフランチャイズとして使用されるようになる。

アマチュア野球も盛んに開催 近鉄バファローズ日程表と日生球場ご案内

1962年5月に改築。しかし収容人員が少ない関係からオールスターゲームや日本シリーズが開催出来ず、テレビの全国中継もほとんど行われなかった。そのため筆者にとっても、永らく映像で見ることの無い「幻の球場」であった。

そして1984年に近鉄自前の藤井寺球場に照明設備が完成したのに伴い、近鉄の公式戦使用は年間10試合前後に激減。1997年の大阪ドーム開場によりその使命を終え、1997年秋の「なみはや国体」を最後に閉鎖、解体された。

場所はJR大阪環状線及び地下鉄中央線森ノ宮駅に近く、交通の便は非常に良かった。ちなみに球場の隣には「森之宮バッティングセンター」があったのが思い出される。

森ノ宮駅 森之宮バティングセンター

初めて行ったのは1993年5月13日の近鉄−ロッテ戦。この日は昼間、神戸サブでウエスタンリーグを見たあとのハシゴ観戦だった。この頃には既にプロ野球プランチャイズ球場はほぼ制覇していたので(広島と福岡ドームはまだ)、次の照準を準フランチャイズ球場や二軍の球場に定めての行程だったと記憶している。


チケットに球場名の記載が無いのが残念

次に行ったのは1996年4月6日の近鉄−日本ハム戦。これは翌年の大阪ドームの開場に伴い、日生球場でプロ野球が行われるのはこの年が最後になるだろうと予想されたので再訪した。

この日は14時開始のデーゲーム。日生球場でプロ野球公式戦のデーゲームが行われるのは10年ぶりであった。なお翌日にもデーゲームが予定されていたが雨天中止となったため、これが最後のプロ野球デイゲーム開催となった。

そして最後のプロ野球開催は5月9日の近鉄−ダイエー戦。試合後には不甲斐ないダイエーの戦いに、ファンが王監督らの乗ったバスに生卵を投げつけるという事件もあった。

さて、球場の窓口でA指定席券を購入。その券には何故か「シーズン予約・非売品」と書いてあった。おそらくシーズンシートの余りを販売してたのだろうが、非売品と書かれたものを正規の窓口で販売することに不思議さを感じたものだ。ただ前回と違って「日生球場」の文字が入っていたのは嬉しかった。


入場券には「非売品」の表示が

1塁側内野席入口と内野席入場券うりば 3塁側外野席入口と外野席入場券うりば
   
3塁側内野席入場券うりばと球場前の屋台 グッズの売店
   
スコアボード裏側

グラウンドは両翼90.4m、中堅116.0m。収容人員は20500人。スコアボードは手動式、そして狭い土のグラウンド。こういう雰囲気は、宮城球場や北九州市民球場などとともに昭和40年代あたりのプロ野球観戦を想像させるものだった。特に男子便所の小用は仕切りがあるだけで便器が無いのには驚いた。

ネット裏から
   
一塁側から スコアボード

 

スタンド下の売店 スタンド内の売店
   
便器の無いトイレ

試合は初回に近鉄が山本、C・Dのタイムリーヒットで4点を先取。守っては高村−清川−池上−佐野と小きざみに投手をつなぎ、日本ハム打線をブリトーの一発だけにおさえて6−1で勝った。観衆は11000人。

筆者の席の横の方では西本幸雄氏が解説をしていたが、すかさず彼を背景に勝手に記念撮影をするオバサンがいて、いかにも大阪らしいなぁと思ったのを憶えている。

その後の日生球場へ

もりのみやキューズモールBASE(日生球場跡地)へ

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