大阪球場

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まずは設立の経緯から。戦後復興した日本プロ野球界は、フランチャイズ制の確立を目指した。南海は1939年6月11日に完成した中モズ球場を所有していたが、立地の不便さなどから集客は伸びず、結局中モズでの公式戦は1950年までに33試合しか行われなかった。

南海はそれまで主に甲子園球場や西宮球場を使用していたが、大阪市を本拠地と定めるにあたって新球場の建設計画が持ち上がり、GHQの許可も得て戦災で廃墟となっていた難波駅西の大蔵省煙草専売局跡地に決定された。

1949年「大阪スタヂアム株式会社」が設立。大阪府の助成もあり1950年1月16日に起工。工費2億円で突貫工事の末、わずか8ヶ月後の9月12日に開場された。これは同じく大阪市にフランチャイズ球場の建設を目論んでいた大陽ロビンスの田村駒次郎オーナーに、早急に建設することを条件付けされたからだという。

しかし開場日は雨天のため予定されていた紅白戦は中止(9月14日に順延)、公式戦も9月16日に予定されていた南海−阪急、東急−近鉄の変則ダブルヘッダーが雨天中止になり、翌17日の第一試合・近鉄−阪急が初の公式戦となった。

1951年7月には関西の球場では初めての照明設備が完成。1952年にはアイススケート場、1954年には卓球場、1956年には場外馬券売場が併設された。

なお南海のホームグラウンドとして建設されたものの、当時はまだプロ野球を開催出来る規模の球場が少なかったため、1952年から1957年までは近鉄パールス、1953年から1954年までは洋松ロビンスの本拠地としても共用された。また、当時甲子園には照明設備の無かったため大阪タイガースが使用することもあった。

1972年のシーズン前に隣接する難波駅の改修工事に伴い三塁側観客席が削られ、グラウンドも両翼84mから91mに広げられた。しかしこれは野球場としての拡張という意味合いよりもサッカー場としての使用を見込んだものであったようだ。そして1977年には「サッカーフェスティバル さよならペレ」が行われた。

また、1979年と1980年には照明設備の無い藤井寺球場や収容人員の少ない日生球場を本拠地にしていた近鉄が、日本シリーズとプレーオフで使用することがあった。

そしてホークスのダイエーへの売却・福岡移転に伴い、1988年10月15日の南海−近鉄戦を最後にフランチャイズ球場としての使命を終える。その後1989年と1990年には近鉄主催の公式戦やオープン戦が行われたが、1990年11月の「東西財界交歓野球大会」を最後に野球場としての使用は終了。1991年4月にグラウンド内に「なんば大阪球場住宅博」が開設。1992年から1年間は住宅博と平行してミュージカル「キャッツ」の公演も行われた。

グラウンドは両翼91.5m、中堅115.8m、収容人員31379人。


「南海ホークス ファンブック 1978」より


同上

筆者が初めて訪れたのは、1988年9月30日の南海−日本ハム戦。この時点で、すでにホークスのダイエーへの身売りが発表されていたため、見納めのための駆け込み訪問であった。

その日大阪球場に着いた筆者は、なごりを惜しむファンでかなりの人出があるものと思っていた。しかしスタンドに上がってみると、客席はガラガラ。公式入場者数3000人と予想外の観客の少なさにあっけにとられたものだ。

大阪「ミナミ」の中心地・難波の街は、金曜日の夜ということもありなかなかの賑わい。なのにそのど真ん中にある大阪球場のなんとうら寂しいことか。この街を歩いている人は、みんな野球にそんなに関心が無いのかなぁと思った。

さらにあっけにとられたのは、球場内の売店で弁当すら売っていなかったことだ(その後スタンドに弁当の売り子は現れたが)。係員に聞くと外に出て買って来てもよいと言うので、一旦外へ出て近くのロッテリアでハンバーバーを買って再入場した。球場のまわりは繁華街なので買い物には困らない。ただ今になって思えば日本中どこでも買えるロッテリアなんかにしないで、大阪名物「551蓬莱」の豚まんでも買えばよかった。

試合内容のほうは実は全然覚えていないのだが、あとで記録を調べてみたら5−0で日本ハムが勝ったようである。そして、チケットの半券や写真も残していなかったのが、今となっては非常に残念だ。手元に残る唯一の記念品は、球場正面の売店で買った「南海ホークスタオル」のみである。


南海ホークスタオル(だいぶ薄汚れてきました)

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