さよなら川崎球場

第4部

「川崎劇場ファイナルシーン メモリアルゲーム」にて(2000年3月26日)

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さて、1時15分になるとグラウンドではセレモニーが始まった。川崎市消防音楽隊によるブラスバンド演奏に引き続き、高橋清・川崎市長による挨拶。市長はその中で「新球場を作る」ことを約束した。


川崎市消防音楽隊と高橋・川崎市長

両軍選手(石井琢、堀)に花束の贈呈のあと、注目の始球式。ピッチャーは元・大洋ホエールズのエース平松政次氏、キャッチャーは1960年優勝時の正捕手・土井淳氏、バッターはオリオンズOBでもある山本功児現・ロッテ監督である。

平松氏と土井氏は大洋ホエールズのユニフォーム姿だ。そういえば筆者が始めて川崎球場を訪れた時(1975年5月1日)の先発ピッチャーも平松氏だった。あれからもう25年かぁ、と感慨にふける。

平松氏の往年のカミソリシュート? は外角低目に決まり、山本監督のバットは空を切った。


始球式

横浜・川村、ロッテ・黒木の先発で定刻1時半試合開始。川崎にしては珍しく? 天気が良く温かい。そしてこれも川崎にしては大変珍しく満員である。

川崎球場の収容人員は、公式には30000人ということになっているが、実際には「野球場大辞典」(沢柳政義・著/大空社)によると26678人らしい。

そしてこの日の公式入場者数は21000人。なんでもスタンドの倒壊を怖れて発券枚数を抑えたらしい。ということで、客席には多少空席があったがそれでもこれだけの人数が入ると場内は非常に狭い。

筆者はこの球場でこれだけ多くの観客が入ったのを今まで経験したことがなかったので気付かなかったが、通路を通る時には多くの人を掻き分けて行かなければならない程で、あらためて古い造りの球場だなぁと実感した。

さて試合は1回裏に駒田のタイムリーヒットで横浜が1点先制。続く2回裏にも谷繁の犠牲フライと波留の2点タイムリーヒットで4−0となる。この時点ではマシンガン打線が炸裂して横浜の一方的な試合になるものと思われた。


満員のスタンド(左・三塁側、右・一塁側)

この辺でちょっと球場を見渡してみよう。外野フェンスには、おそらくこの日のために書かれたと思われる広告があった。それは「川崎市観光協会連合会」「川崎市工業団体連合会」「川崎市商店街連合会」「川崎フロンターレ」などである。

そしてその中に「川崎市工業絡連会というのがあった。これはひょっとして「連絡会」の間違いではないだろうか。あわてて書いたので間違えたのだろうか(笑)。また両軍のベンチ上には「ありがとう川崎球場!」という文字が書かれていた。


ベンチ上には「ありがとう川崎球場!」の文字が

またスタンドにはロッテオリオンズや大洋ホエールズの応援団の姿もあった。ロッテが川崎を離れてから9年、一方大洋が川崎を離れてから22年、ということで人数的にも元気さにおいてもオリオンズのほうが優勢に見えた。

レフトスタンドには「関西流星会」や「疾風戦志 西村徳文」の横断幕があった。そして三塁側の壁には先日の「2.26川崎球場オリオンズさよならイベント」のボードも。よく見ると「2.26」のあとに「から1ヶ月」と書き足してあった(笑)。


オリオンズ応援団


ホエールズ応援団


「2.26(から1ヶ月)オリオンズさよならイベント」のボード

また、一般の観客の中にも昔の帽子やユニフォーム着た人たちがいた。こちらはホエールズがやや優勢といったところか。その中には湘南カラー時代のホエールズのビジター用のユニフォーム(何故か全員背番号25…松原誠?)を着ていたグループが目をひいた。この人たちは何者?(笑)


背中に「KAWASAKI」と書かれていた
時代の大洋ユニフォームのファン


湘南カラーの大洋ユニフォームの集団
(みんな背番号25)

またライトスタンド後方の「ハウスプラザ角倉」にも数人の人の姿が見えたが、これはたぶん住民であろう。なお、この日のウグイス嬢は1968〜71年まで大洋の専属アナウンサーだった旧姓・吉田啓子さんが勤めたが、久しぶりのアナウンスにトチることが多かった。でもこれもご愛嬌ということで。


ライトスタンドとハウスプラザ角倉

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