下関球場

(ゲスト寄稿/山口県・くらたともひろさん)

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JR新下関駅からサンデン交通バスで15分、蒲生野バス停下車という、どちらかというと不便な所に球場ができたのは1988年7月、その開場の時期からもわかるように、こけら落としは夏の高校野球山口県予選でした。

両翼100m、中堅122mと広めに取ったのは、プロ野球公式戦開催を念頭に作ったためで、実際、翌1989年3月には大洋−巨人のオープン戦が、さらには同年8月にはセ・リーグ公式戦の大洋−ヤクルトが、それぞれ行われています。

思えば、1950年の創設から、1952年の松竹ロビンス合併に伴う本拠地移転(この時は大阪。川崎に落ち着いたのは松竹撤退後の1955年)まで、現在は下関市立中央病院の建てられている所にあった下関市営球場を本拠地としていた大洋ホエールズにとって、下関はまさに「ふるさと」とも言える所。だからこそ下関に新球場ができたときに駆けつけたのではないでしょうか。しかも、8月の対ヤクルト戦はナイトゲームで行われています。

その後も年1回のペースでセ・リーグの公式戦は組まれていたのですが、大洋漁業がマルハと社名を変えた際、横浜大洋ホエールズは親会社のイメージを払拭し、横浜の町に根付いた球団をアピールすべく「横浜ベイスターズ」に改名後は2年に1回のペースに落ちてしまいました。

それでも、いざ試合が行なわれますと、私を含めた地元山口県内のベイスターズファンや下関市民がこの球場にかけつけますし、さらにはTYSテレビ山口のカメラマンと技術スタッフもテレビ中継のために中継車ともどもこの球場に来て、熱戦の模様を、下関まで足をはこべない方々に送り届けています。

そう、ベイスターズの公式戦が下関に来る日は、まさにお祭り騒ぎなのです。

ところで、下関といえば1998年5月10日の雨の中の駒田さんの満塁ホームランを私は思い出しますが、実は旧下関市営球場でも同じようなことがありました。

1960年6月29日の対巨人戦ダブルヘッダーの、それもいずれの試合も延長12回までもつれこんでのその裏、かたや1−1から沖山の送りバント処理をキャッチャー森が誤って、もう一方は6−6からの桑田武のサヨナラホームランと、まさに素晴らしい(もっとも、巨人ナインや巨人ファンにしてみりゃ悪夢としか言いようのない)幕切れでした。

でもこの6月29日の件、私は今年(1999年)1月から2月にかけて発表されたマンガで知りました(笑)。

ところで、私は住んでいる所や職場の都合から、どうしてもプロ野球観戦は福岡ドームか広島市民球場へ行くのですが、往復の汽車賃が1万円くらいかかってしまいます。まァ往復とも新幹線利用ですからねえ。

それだけに、所要時間はともかく(下関へは小郡から在来線で約1時間、福岡および広島へは小郡から新幹線「ひかり」で40分程度)として、汽車賃のあまりかからない下関(小郡から往復2220円)にプロ野球の公式戦が開かれるのは、2年に1度とはいえ、うれしい限りですね。

スコアボードは電光式ではなく、グラウンドばかりか外野席も芝生という、いかにも収容人員25000人の地方球場のたたずまいを持つ下関球場ですが、のどかな雰囲気の中楽しむプロ野球観戦は、福岡ドームや横浜スタジアムやグリーンスタジアム神戸などとは一味違ったものになると思います(もっとも、横浜−広島のときのレフトスタンドには、そんなものはありゃしません。広島市民球場のライトスタンドとほとんど同じです、ええ<笑>)。

何はともあれ、本州の西の果て、海峡の町下関の球場へ、ぜひ一度「おいでませ」!!

<参考資料>
・「野球場大事典」沢柳政義・著/大空社
・山口新聞〜1988年7月20〜22日付、1989年3月5日付、8月28日付
・「大洋ホエールズ優勝物語」真船一雄・著(原案・富永俊治)〜週刊少年マガジン(講談社)1999年9〜10号

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