川崎球場
川崎駅の東口から歩いて約15分、競輪場に隣接した決して環境がいいとは言えない場所に川崎球場はある。一体何回この道のりを歩いただろうか。ちなみにバスも走っているが一度も乗ったことは無い。
開場は1952年4月で、1954年〜56年は高橋(トンボ)ユニオンズ、1955〜77年は大洋ホエールズ、1978〜91年はロッテオリオンズの本拠地として野球ファンには親しまれた。
両翼89m、中堅118mと最近の球場と比べるとかなり狭く、左バッターがチョーンと流し打ちをしただけでレフトスタンドへ飛び込むようなこともあった。
なお、収容人員は球場正面の壁には「30000人」と掲示されているが、「野球場大辞典」(沢柳政義・著/大空社)によると正確には26678人らしい。
また、当初は「川崎スタジアム」という名称だったらしいが1963年に「川崎球場」に改称された。しかし今でも球場の入口には「川崎スタヂアム」という看板が残っている。
筆者が初めて川崎球場に行ったのは1975年5月1日の大洋−巨人だった。この試合は平松が投げて2−1で大洋が勝ったという記憶がある。
そして、主にこの球場に足を運ぶようになったのはロッテが本拠地として使うようになってからだ。
一番記憶に残っているのは、1982年10月7日のロッテ−近鉄ダブルヘッダー。この日は「平日のデーゲーム」、「雨」、「消化試合」という観客が入らない条件を全て満たしており、客席は非常に閑散としていた。
ためしに試合開始時に観客の数を数えてみたら、わずか80人だった(それでも公式発表は500人)。この、観客の数を数えるという作業は当時ロッテに居た落合がベンチでよくやっていたそうである。
これだけ観客が少なければきっとホームランボールが捕れるだろうと思い外野席に座った。しかしホームランボールを捕ることは出来なかった。
そのかわりにラジオの取材陣に「何故、こんな試合を観に来たのか」とインタビューされてしまった。余計なお世話である。
それと皆さんご存知の1988年10月19日のロッテ−近鉄ダブルヘッダー。実はこれも筆者は観に出掛けた。夕方に仕事が終わり、ラジオで試合状況を聴きながら川崎へ向かった。
途中で何か大変なことが起きたというのがラジオから聴こえたが、あいにく電車の中だったので雑音がひどく、よく聞き取れなかった(あとでそれが阪急の身売りだと知る)。
しかし球場に着くと、入場券は全て売り切れで入ることが出来なかった。しかたがなく自宅へ帰りTVを見た。でもTVの画面を見るとけっこう空席が有るではないか。筆者は釈然としない思いをした。
その後ロッテが千葉へ移転してからも、川崎でプロ野球のゲームがあると出来るだけ行くようにした。移転1年めには2試合ほどロッテの公式戦が行なわれたが、それも観に行った。
また1992年10月3日のジュニア日本選手権・巨人−中日や、1994年3月19日の横浜−日本ハムオープン戦、1996年8月28日の巨人−日本ハム二軍戦、そして1997年8月20日の巨人−ヤクルト二軍戦にも行った。
1996年の二軍戦では当時巨人の阿波野が登板したが、まさか彼もこんな形で川崎で投げることがあろうとは思わなかったであろう。
さて、筆者のこの球場のお気に入りの場所は一塁側自由席の最上段である。
自由席には背もたれが無かったが、最上段だと後の看板が背もたれがわりになったからだ。いつも観客が少なかったので席は自由に選ぶことが出来た。
それと一塁側にある「球場名物ラーメン」と三塁側にある「広島風お好み焼き」。これもよく食べた。
特にラーメンのほうは観客が1000人くらいの時でも300杯は売れたといわれている。中には試合前と試合の終盤に二度食べる人もいたようだ(1999年7月に高校野球神奈川県予選を観に行った時は、ラーメン屋は健在で1杯550円、お好み焼きは営業してなかった)。
これはかつて川崎球場のウグイス嬢をしていたベースボールライター鉄矢多美子さんの話だが、スコアボードの中がテレビや映画で「犯人」が逃げ込む場所としてよくロケで使われたそうである(「ベースボールマガジン1997年夏季号」より)。
そういえば学生時代に川崎球場のスコアボード係のアルバイトの募集があった。今思えばやっておけばいい話のタネになっただろうにと悔やまれる。
そのスコアボードも電光式になりグラウンドも人工芝に変わったが(ともに1991年より)、今もなお古き時代の雰囲気を残している。1998年の神奈川国体を最後に閉鎖されるという噂があったが、今のところその処遇は未定のようである。
<追記>2000年1月5日、高橋清・川崎市長が記者会見で2000年3月末をもって閉鎖することを発表した。